湿気

あなたの希死念慮を確かに認めるし 微笑んで見送るよ。

英語の過去問解いたら17点だった

マジで絶望してる。

もうすぐ模試があるので英語の過去問を解いたら17点だった。なに?

高校に5年もいるのに高1の問題もまともに解けなかった。知らない単語ばかりで、問題を解きながら「これは死ぬしかない」って思った。

苦手な数学に取り組む時と同じ絶望で、今年は数学を取らないことでその絶望から逃れて健全に勉強していたのに。

自分の出来損ないさを突きつけられて死にたい。涙が止まらない。こんなに頑張ってるのになんで人並み以下なんだろう。

死んでゼロになりたい 何もしないでよくなりたいよ~

 

 

 

↑を書いたラブい私へ

おつかれ~!60分集中して解いたのエラ~~!

そうだよね、自分の5年間がみんなの1年間以下で死ぬしかないと思うじゃん、でもね大丈夫だよ。

成長する速度は人それぞれで、自分に合った環境を選んでいたというところからまず偉くて、その環境でする勉強はめっちゃ楽しかったよね!

今日の過去問は自分が勉強してなかった範囲だからできないのは当たり前じゃん!

ハードなスケジュールをこなしてもこなしても後ろに新しいタスクが並ぶような人生の中、自分のために時間をかけることができるというのはマジですごいことだから!(そして本来勉強ができるできないによって人生に格差が生まれてはいけないから!)

疲れやすいあなたがそれでもやる頑張りに必ず報いてみせるよ!という気概です!今!

そして死ぬ時は一緒だよ♪

セルフラブを実践できたラブい私より

𝐊𝐈𝐒𝐒♡

〖メモ〗毛並みを整えてくれるイマジナリーフレンド

イマジナリーフレンドがいる

名前は無いのでもう一人の私って呼んでる

自分と瓜二つだけど表情の使い方が全然違う。いつも落ち着いていて冷めた感じだけどとても優しい

自分が世界に絶望したときや悲しくてしかたがないときに出てきて頬を撫でたり、抱きしめたりしてくれる

こういうふうに自分を慰めることを私は「毛並みを整える」と呼んでいる

もう一人の私に守ってもらっている感覚がある

イマジナリーフレンドが架空の人物だということは自覚してる

椅子のサイズの岩に座っていて周りは枯山水みたい

このもう一人の私にになら甘えられる(甘やかされを受け入れられる)

このもう一人の私と会うときはなんだかすごく切ない気持ちになる

 

『犬王』感想

劇場アニメーション『犬王』がアマプラに追加された

※以下ネタバレあり

フォ~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!犬王と友有の話!!!!!!!!!!自分の名前を自分で決めた(名付けた)2人が……………(泣)

やっぱり『鯨』のパフォーマンス好きだな。

成仏手前の友魚パパかわいい。「この近くに亡霊おるんかね?」に「おらがおる」て返す友魚パパ… ンヮかわ…

(「まめにせちょった?」「幽霊にてぇしてまめなかはなかろうがや」「そうじゃね」という友魚と友魚パパのやりとりもかわいい)

将軍め、友有と犬王を分断させるのが上手いこと上手いこと… (褒めてない)ウェーーンまつりごとから降りろ~!!権威安定のための生活の剥奪、アイデンティティの破壊、意志の抑圧、最悪の言論弾圧

頑なに友有としての在り方を変えようとしなかったのになぜ最期は壇ノ浦の友魚として死ぬのかわからなかったけど、絶望なのかな。

将軍の勅命を聞き、怒りに震え鬼の形相になる犬王が、友有の命を天秤にかけられて、静かに飲み下し明朗快活に笑い飛ばすまでの間。すごく緊張した。もしかしたら友有と自分の命を投げ捨ててでも自分たちの舞を突き通すのかも、と思った。

六百年探し続けた犬王、2人とも六百年成仏しなかったんだな(亡霊にさせられたんだな)。2人が会えてよかった!

 

去年、アマプラで『平家物語』を観ていた時に水上文さんの記事(掻き消された声を語り継ぐ男と男の物語──映画『犬王』が伝える「私たちはここにある」https://www.cinra.net/article/202205-inuoh_gtmnmcl)を読んで感動したのがきっかけで『犬王』を観ると決めた。

手元にはロープを買うお金しかなくて、迷ったけどそのお金で観た。

映画館で観たときはバリアフリー日本語字幕バージョンの上映を選んだので、日本語字幕が付いててすごく見やすかった。

アマプラではちらほら日本の映画にも字幕が付いているけど全部ではなく(テスト中なのかな?)、観たいものには大抵付いてないので不便。

映画館でもDVDレンタルでもサブスクでも邦画の日本語字幕バージョンが当たり前になって欲しいよ~~~~~!!!!!

 

 

取りこぼしてしまってると思うけど取り敢えず書けてうれしい!

感想や解釈が、そこまでに至る知識や経験がどれだけ優れているか劣っているか、どれが一番正解かを競うものとして扱われること増えたと思ってて(あとは、気づいた問題点を指摘や批判そして議論や抗議などをせずに「自分には合わなかった」として立ち去ることも増えたと思う)、私も、尊敬してる人の解釈を正解にして、そこまで辿り着けない自分の浅さを惨めに思ったりしていたけど、そうではなくて、まず自分がどう思ったかを正直に書き出す作業でありたい…!!

おぼつかない自分だけのものも温めて大切にしようと思った。

秘密主義とトラウマの関係について

自分はなんでこうも秘密主義で自己開示が苦手なんだろうと思うことが増えたんだけど、何を言っても否定されることが小さなトラウマになってたんだと気づいて幼い頃の自分を抱きしめたくなった。

 

相手に自分の意思を伝える時にものすごいストレスを感じるのは相手の否定的な反応を先回りして考えているからで、母親!!!!!!!!!!

圧倒的母親要素すぎる。

子の自己決定を全て否定する、ダブルバインドで混乱させる、ごめんなさいを言わない

母親がこのような不健全なコミュニケーションをどこで学んだかというとモラハラ家父長制のあの家で、ハラスメントが認知されていない頃の社会で、祖母を奉公として奴隷みたいに扱ったあの家であの時代でこの国で、根はどこまでも深く、自分も例外ではなくて…

もし未来に対差別用の根から枯らす除草剤が開発されても、私は暴力への抵抗と学びを続ける。誓う。

 

ニュースになる虐待やネグレクトに比べたら些細なものだけど、自分の明らかな傷を周りの傷と比べることでなかったことはできないし、治りもしないから、矮小化しないでトラウマを抱えた自分に向き合いたい。

 

トラウマケアのことも勉強しよ!自分のために!

 

今まで気づかなかったくらい日常的だということは、自分に染み付いていて、自分も母親と同じような振る舞いをしていたんだと思う。そう思うと死にたくなるけど、これも、死んでなかったことにはならなくて最悪。

絶対私の代で葬る。

〖メモ〗かわいいと思いすぎる

自分は、人にオタクベースの「かわいい」という感情を抱きがちでかわいいと思いすぎて泣くこともしばしばだけど、人に向かってかわいいと伝えるのは対等な関係性を育めなくなる可能性(一方的な消費)があるので気をつけなければいけないなと思った。

オタクベースのかわいいは消費の側面が強く、それを特に現実の生活圏にいる人間に向けて使うのはどうなのかなって考えてる。

 

【非ロマンス】恋愛感情がわからない

女の子には好きな人がいて、一途に想って、恋心を成就させるために“自分磨き”をして、想い人と距離を縮めて、

…………

結婚して、出産して、育児と家事して、末永く幸せに暮らしましたとさ。

 

のテンプレートを幼い頃から刷り込まれていたから気づかなかったけど、私全然恋愛感情わかんない。

恋愛感情と友愛感情や家族愛などとの区別がつかない。

自分が恋愛対象になるのがたぶん嫌だ。

好きな人と一緒に暮らしたいと思わない。セックスもしたいと思わない。

 

でも幼稚園でも小学校でも中学校でも恋愛感情的に好きな人がいた。

女の子には好きな男の子がいるのがあたりまえで、両思いになるためにかわいいさを備えていなければいけないと思っていて、

そしてなんだか本当に意味不明だけど、男の子にからかわれる女の子でないといけないと思っていた。

 

今振り返ってみると、これまで恋愛感情的に好きだった人と付き合いたいと思ったことがない。(ので告ったこともない)

一応これまで好きだった人たちのことを「恋愛感情的好き」とラベリングしているけど恋愛感情が何かわかってないので、実の所「恋バナで友達にこの人が好きと言ったことがある人」であり、今では本当に好きだったのかもわからなくなっている。

 

これは考察だけど、「なんだかこの人私のこと恋愛感情的に好きそう」と思うような人といると勝手にその人のことを意識してしまい、勝手に緊張してしまうことがあるので、その向けられている好意っぽいものに対する緊張のことを「恋愛感情的好き」だと勘違いしていたかもしれないと最近思う。

 

自分は場の空気を雰囲気で察しがちで場の空気感に感情を支配されやすく、自分の情緒でその察し(憶測)を強化しがちなところがあるので、それが恋愛における社会規範と他人の感情などの無意識インプットに繋がっていると思う。

 

このことから恋愛をしないのではと思い、自分をAロマだと思うようになった。

その後にクワロマという概念に出会って今はクワロマに落ち着いている。重要な他者というワードがとても好き。

でも、自分をデミロマだと思う時もある。けどそれはデミロマンティックの“デミ”の部分だけを指しているからデミロマではない。

私の“デミ”要素はとても強く、デミな人間であることは確か。

 

私の愛の理想は好きな人の生活を遠くから慕い応援することだから恋愛をしようとしてもきっと何も起こらない。

私の自我は一人でいる時にしかちゃんと出てこなくて、いくら好きな人だろうと生身二つが一緒に暮らしていくことは自分を殺すようなことに思える。できない。

私は人生で一度も自我を安心して見せられる人に出会ったことがない。コンプレックスだけど高潔っぽくて気に入ってる部分でもある。

 

恋愛感情ってどういうものなんだろう。

私は、好きだ!とても好き!と思う人がたくさんいる。

一般的な 好きな人 は恋愛感情的に好きな人であることが多いので明言すると、私の言う好きな人は恋愛感情的好きでは多分なくて、大部分が信頼や敬慕で形成されている。

 

恋愛感情はわからないけどラブストーリーが苦手というわけではなく、他人の恋バナを聞くのは大好きだし、愛着のある人物のラブストーリーは進んで鑑賞する。

登場人物の恋が上手く行きそうだったらテンション上がるし、ややこしい流れになったら焦れったくなるし、一生懸命アプローチを取るシーンはドキドキするし、失恋したら心を震わせて悲しみ、感情が高ぶると色々なシーンで涙が出てくる。オタクの使う「壁になりたい(その世界に壁として参加し𝐋𝐎𝐕𝐄の行く末を見守りたい)」という言い回しにも大いに共感する。

 

ので恋愛感情がどういうものかは何となくわかっているはずだけど自分の持つ恋愛感情についてはわからなくなってしまう。そこにあるのかないのか捉えられない。

 

恋愛感情と友愛感情の区別がつかない理由は自分が好意を持つ人に抱くのは愛そのもので、抱いた愛を恋愛、友愛、家族愛…etcにカテゴライズしていないからだと思った。

カテゴライズしない故に、友達という関係の人とも親しければ(デミ要素)自分の中で恋愛感情に発展させるポテンシャルはあるのだろうけど、自分は恋愛感情がわからないし恋愛をしたいと思わないのでそれができない/したくない。

 

 

 

 

今年の抱負 2023

まだ生きているんだね。

 

抱負は

①創作活動をする

 

とりあえずこれ!!!

これをせずに死ぬなんていや!!!

 

「シレッと年越ししやがって、自分への裏切りだ!」と思う自分がいる。

次死にたくなったら死ねばいいという気持ちと、自分を労れ早急に死ねという気持ちが混ざって自分でも自分のことがわからない。

生きるって決断をした自分を祝福したいけど、バカみたいに苦しめられてるのにずっと生きてる自分にイライラする。

生まれてこないのが本当に一番良かったと思う。だから生まれ変わりなんてあってたまるかと思っているし、生まれ変わりがあるとしても「無」になるって決めている。

 

生きることは自己犠牲だと思ってるけど、死ぬのもまた自己犠牲なんだと最近気づいてしまって足場が崩れていく気持ち。